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古代史ネットkodaisi.net は橘氏について調べたのがきっかけでした。倭奴(いの)国初代天照大神の天石門別八倉姫や天石門別手力男命と各地の天の岩戸なども調べています。
「倭国」は「いのくに」阿波徳島か?倭奴国王は「いの」国王

伊勢神宮内宮の西殿には撞賢木厳御魂天疎日向津比賣と東殿には天手力男命こと向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊が祀られています。
倭国「いのくに」徳島と国栖=胡人の王・向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊
「倭国」は「いのくに」阿波徳島か?倭奴国王は「いの」国王

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2016年8月8日月曜日

み吉野の御船の山に立つ雲の常にあらむとわが思はなくに 井光姫のお戸さん天 の岩戸のモデル


み吉野の御船の山に立つ雲の常にあらむとわが思はなくに 井光姫のお戸さん天の岩戸のモデル

気持ちのいい御船の滝からあと500mほどでお戸さんです。
あと460mだから、たいしたことないかなあと思ったら、ほぼ垂直460mでしたね

御船の滝
この滝の磐は船の舳先の形です。
 
お戸さんも船の舳先の形、三角っぽい磐です。
お戸さんのある山は御船山というそうです。

 

み吉野の御船の山に立つ雲の常にあらむとわが思はなくに

 
み吉野の御船の山に立つ雲の常にあらむとわが思はなくに
三吉野之 御船乃山尓 立雲之 常将在跡 我思莫苦二    弓削皇子
右一首、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。
『万葉集』巻三 二百四十四歌
吉野に持統天皇が御幸したときに、弓削皇子 が詠んだ歌です。
 
宮滝は「たぎつ瀬」で、滝があったというわけではなく、高見川の流れが速いあたりに吉野離宮はありました。
御船山は高見川の上流のあたりから少し離れたところです。
 

吉野の御船山

九州王朝説の人は吉野の御船山ではなく、九州の御船山だといっておられますが、歴史的背景を考えると、九州の御船山は違うでしょう。
 
九州説の人は「雲が立ち昇るような山ではない」というのを根拠にしておられますが、それは事実とは違います。
私は泊まっていた民宿からも、霧がどんどん山の上に昇り、雲となって立ち昇るさまを見ました。
九州の人は山霧がどんどん上に昇り、雲となるのを見たことがないのでしょうか?
雲が立ち上るのをご覧になったこともなさそうですのに、あまりに乱暴な説に驚きました。
 
ちょうど写真がありましたので、証拠として載せます。これ、どう見ても雲です。
雲が立ち上る御船山(写真奥)

吉野離宮の跡から高見川を上流に行くと、丹生川上神社中社です。
丹生川上神社中社の地図
 

御船山は井光姫が神武天皇のために祈った場所

御船山は井光姫が神武天皇のために祈った場所です。
丹生川上神社から更に上流に行ったあたりが、神武天皇を助けた井光姫が神武天皇のために呪術を行った場所が御船山の上のお戸さんです。
御船山が九州にあったとしたら、九州のローカルな範囲で、井光姫が神武天皇のために「倭」統一を祈り、今頃天皇家も九州にいるはずでしょ。
御船山は天の岩戸開きのモデルになった場所なのです。
井光姫のお父さんの名は白雲別命です。
白雲を別けるという意味の名前でしょう。
雲を分けるという意味は山に関係するなまえでしょう。
白雲別命は吉野の前は丹波に降り立ちました。
九州でしたら、九州から丹波にいって、またその娘の井光姫が九州のに戻って九州の御船山に昇って神武天皇のために祈る。。。それってどう考えてもおかしいでしょ。
秩父などにも雲取山などもあります。
 

丹生川上神社中社では神武天皇が呪術を行った

丹生川上神社中社の「夢の淵」の川原でも神武天皇が呪術を行いました。
そこは神武天皇が呪術を行い、倭を手に入れた場所です。
吉野離宮は高見川の少し下流です。
 
持統天皇は何をしに来ていたか
神武天皇が呪術を行い、倭を手に入れた場所だからこそ、持統天皇は吉野離宮に足繁く御幸していたのです。
神武天皇にあやかるためでしょう。
現在は民家になっていますが、宮滝の離宮の遺跡跡にも行きました。発掘もされて、かなり広い離宮跡でした。
九州に宮滝の離宮の遺跡跡があるのでしょうか?なんでもかんでも九州にしてしまうのはいかがなものでしょう。
神武天皇の祭祀にあやかり、持統天皇は「吉野」で祭祀を行っていたのでしょう。
倭を手に入れる、息子のために、孫のために
 
大君は 千年に座さむ 白雲も 三船の山に 絶ゆる日あらめや
春日王奉和謌一首
王者 千歳[二]麻佐武 白雲毛 三船乃山尓 絶日安良米也
王(おほきみ)は千歳(ちとせ)に坐(ま)さむ白雲も三船の山に絶ゆる日あらめや  243
 
弓削皇子の「み吉野の御船の山に立つ雲の常にあらむとわが思はなくに」に対する返歌です
若者の不安定な心情に対する励ましの歌ととるか
それとも雲を持統天皇ととり、不吉な歌を打ち消す言挙げととるか
 

弥生時代まで四国と紀州半島は陸続きだった

倭はもしかしたら、弥生時代まで陸続きの四国を含んだ地域かもしれません。
伝承によると、弥生時代まで、四国と紀伊半島は陸続きだったそうです。
確かに四国にも紀州半島にも吉野川があり、たしかに紀州の吉野川の延長に四国の吉野川がありますので、陸続きの時代があったのだろうと思います。
 
この歌が詠まれたのが紀州の吉野でなければ、四国の吉野かもしれません。
吉野川は弥生時代まで四国と紀州にまたがってながれていたそうです。
倭が四国で
大倭が今の大和で
だとすると、四国かもしれません。
 
が、大和を呪術的にも手中にするために神武天皇に倣って吉野まで来ているのですから、大和の元の倭の四国ということはあっても、九州ということはなさそうな気がいたします。