井光姫のイカリは井開・猪飼・犬飼のイカリと同じよみだと言いたかったので
岩戸分神社 神奈川県平塚市高根 高野と手力男
から転載し、加筆しました。
井開・猪狩・犬飼は井光姫のイカリ
井開・猪狩・犬飼というのは、水銀などの「井」を掘り採掘していたためについた氏族名です。
歴史家の中には屯倉の盤をする犬や食用の猪を飼っていたから猪狩・犬飼と今だに勘違いしている方がいらっしゃいますが、井光姫(いかり)のいかりですよ。
手力男の一族と密接な関係があり、同じ場所にいることの多い井光姫も「いかり」です。
屯倉に猫ならぬ犬を見張りにするために飼っていたから「犬飼」だという頓珍漢な説をいまだに流している方もいらっしゃいますが・・・・
米蔵の鼠には猫ではないでしょうか?
我が家の犬はネズミも獲ってましたが・・・
昔の古い家屋には青大将が住んでいて、ネズミを捕ってくれていたものです。実家でも夫婦で青大将が住んでいました。
屯倉の鼠の見張りは猫がいなければ、昔は蛇で事足りたのではないでしょうか。
高床式倉庫の鼠返しは何のための仕掛けなのでしょうか?
海神族で銅を採掘していた軍事の手力男の一族が、屯倉の見張りするために犬飼ってどうするんでしょう?
高野明神こと犬養明神・犬飼明神(大名草彦)も犬を連れてますが、狩りや鉱脈を探すのにここ掘れワンワンとしては使ったかもしれません。
西国では上古は胡人の偉人を「犬養さま」と呼んでいた
真鍋大覚著『儺の国の星』[儺の国の星]によると、縄文時代に日本にきた西域や中近東の民である国栖の一族の偉人は犬を飼っていたそうです。
手力男の娘の丹生都姫は国栖の祖とされています。
(博物館のポスターより丹生都姫)
なので、丹生都姫命の子(子孫)の大名草彦(犬飼明神・狩場明神)も犬を飼う習俗があったのでしょう。
「西国の人々は上古は胡人、近世は牧師宣教師等の偉人をすべて犬養さま(いぬかいさま)と敬っておりました。そして中東の神話が説かれる星をも犬飼星とも拝んでおりました。
西洋から宣教師が渡来して、犬を連れているのを見て、始めて犬養さまの名を再認識したと聞きます。
今は犬養星の名は僅かに牽牛星(ひこぼし・彦星)だけに残っていおります。これを昔は泉滸星(いごのほし)と呼んでおりました。漢人は黄泉(オアシス)を井(サンズイに虞)(いご)といいました。牽牛星は天の河原の畔の伏流水を汲むと信じていたからであります。
[儺の国の星]P100 より」
空海と犬飼明神
ということは、手力男や丹生都姫を祖とする橘氏や縣犬飼三千代も国栖(胡人)の一族だということですね。
国栖の長=犬飼さま 縄文時代は犬はステータスシンボル
胡人・国栖の長=犬飼さま
であったために、縣犬飼氏・犬飼氏を名乗ったのかもしれません。
縄文時代は犬を飼うのはステータスシンボルだったようです。
海人族で「○○の犬飼」というのは、みな胡人の偉人であったために、
県犬養(あがたのいぬかひ)、海犬養(あまいぬかひ)、若犬養連(わかいぬかひ)、阿曇犬養連(あずみのいぬかひ)など名乗っていたと推察できます。
そうえば、吉野の国栖の人に聞いたのですが、
天武天皇が国栖の里で船をひっくり返した下に隠れていたとき、犬が見つけてワンワン吠え立てたために、犬を殺して、あとで犬を供養してその塚もあり、その犬の名前まで伝わっているそうです。
大友皇子側の国栖が飼っていた犬だったのでしょう。
犬の塚を作って弔うのも国栖の人がいかに犬を大切にしていたかが伺えます。
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