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古代史ネットkodaisi.net は橘氏について調べたのがきっかけでした。倭奴(いの)国初代天照大神の天石門別八倉姫や天石門別手力男命と各地の天の岩戸なども調べています。
「倭国」は「いのくに」阿波徳島か?倭奴国王は「いの」国王

伊勢神宮内宮の西殿には撞賢木厳御魂天疎日向津比賣と東殿には天手力男命こと向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊が祀られています。
倭国「いのくに」徳島と国栖=胡人の王・向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊
「倭国」は「いのくに」阿波徳島か?倭奴国王は「いの」国王

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2021年8月10日火曜日

真澄探當證 身の代と遺す桜は薄住よ

真澄探當證  身の代と遺す桜は薄住よ

 

「真清探當證」と継体天皇の薄墨桜 ( 2015/04/03)の記事です。

 

身の代と遺す桜は薄住よ 千代に其名を栄盛へ止むる  継体天皇

 

真澄探當證が復刻されました。

 

今まで、古書があまりに高価で、手が出せなかったので、嬉しいです。

他にAmazonで入手出来て内容がわかる古書はこれです。

今から1500年ほど前、雄略天皇に父を殺害された億計王(第 24 代仁賢天皇)と弘計王(第 23 代顕宗天皇)の兄弟は真清田神社神主である叔父を 頼って、母の在所である丹波から尾張一宮へと落ち延びました。

二人と一行は農業などをしながら、隠れ住みます。

やがて、弘計王と豊媛の間に男大迹(後第 26 代継体天皇)が誕生。
乳母夫妻(後の物部氏の祖)とともに岐阜県の根尾村に隠れ住みました。

後に男大迹王は都へ迎えられて 継体天皇として 即位。根尾村を去るにあたり、真清田神社で献納を受けた桜木をお手植えし御歌を詠まれました。

「身の代と遺す桜は薄住 (うすずみ )よ 千代に其名を栄盛へ止むる」と。

これが、「うすずみ桜」の由来と言わています。

 

根尾の薄墨桜と継体天皇参照
https://ichinomiyadaigaku.com/pdf/15-03-28masumitantosyo2.pdf

こちらから薄墨桜のライブ映像が見えます
https://www.city.motosu.lg.jp/sight/live/

 

「真清探當證」を読んで、「総社明神は尾張の国中嶋郡真清田社祭神大巳貴命にて、当国の一の宮なり。」という鎌倉初期の記述を思い出しました。

「和歌山市直川(のうがわ)にある丹生神社(にうじんじゃ)は
1192(建久3)年 紀朝臣實俊が尾張国熱田神を勧請し直川郷の総社とします。」

丹生社、総社の両神社は村中に在り一村の産神なり。
社傳に丹生明神は丹生津姫神なり。総社は尾張国熱田の神とある。 丹生神 は本国神名帳に正一位直姫神とある。
当丹生神社は高野の丹生大明神を里上山に勧請して祀りしを、天正年間に今の 地に移し祀る。里上山に丹生の段と云う舊跡がある。
総社明神は尾張の国中嶋郡真清田社祭神大巳貴命にて、当国の一の宮なり。

同神を建久二年に直川郷・紀朝臣實俊当所の領主となりたる時、勧請して直 川郷の総社とす。
古くは当社の前、東西に馬場あり、その東を的場といい、神事に走馬ありし跡 なり。
その祭禮に桃弓棘矢にて武者試馬流鏑馬に悪気を射し所、後世的場と云う字遺 称あり。
旧直川は東西両村に別れ、丹生社は東に祭る神なり。天正年間に総社境内に移 し、それより両社を同所に祀る。一村の産神と祭祀する。」

丹生神社(にう)https://kamnavi.jp/ny/musonew.htmより

この文書が書かれたのは鎌倉初期で、少なくとも平安時代や鎌倉初期までは真清田神社が日本一宮だと思われていたようです。

「真清探當證」によると、仁賢天皇と顕宗天皇が隠れ住んでいたこともあり、真清田神社で天皇即位が行われたため、それ以来、少なくとも鎌倉初期までは真清田神社が日本一宮という認識があったようです。

「真清探當證」では真清田神社の由来を、黒田神社だと皇子たちに誤魔化して野宿して、黒田神社(真清田神社の旧名)についたときにここが本当の黒田神社とは言えなくて、真黒田神社だと言ってから名前を変えて、真黒田にして、後に真清田にしたそうです。

 

真澄探當證によると、もともと真清田神社は黒田神社といったそうで、野宿をした場所を皇子たちには黒田神社だといったので、本当の黒田神社に着いた時に、皇子たちに聞かれてここが本当の黒田神社だとは言えず、「真」黒田神社だ、と言ったことから、後に真黒田あらため真清田神社としたそうです。