御間都比古神社
徳島県名東郡佐那河内村下字中峰
ご祭神 観松彦色止命(みまつひこいろとのみこと)
バス停は徳島バス「大宮神社」が最寄りか??
大宮八幡神社 徳島県名東郡佐那河内村下字高樋 を後にし、滝の宮神社・杉の宮神社 徳島県名東郡佐那河内村根郷 から地図を見ながら山の中へひたすら登っていく。
もういいかげんにつかないかと思ったころにやっと辿り着きました。初めての土地で土地勘もないので不安になりました。
延喜式小社、長の国の祖神観松彦色止命が初めて佐那県に居住し、山野を墾き巧みに谿水を井比に利用して水田の基を起こし、また、海浜の地に漁業を教えて産業を開発せられた。
成務天皇の朝9世の孫、韓脊足尼が長の国造となり祖神観松彦止命を長峰の中腹(佐那河内村の中峯)に奉祀し祭政一致の実を示された。醍醐天皇の御代延喜の制に国幣小社に列せられた室町時代の末に、戦国の世に御代破壊し、旧跡に形ばかりの小社を建て守護が祭祀を奉化した、天保11年(1840)5月に、社殿の改築が行われ、明治初期の公文書に社名が見え、絵図もある。昭和9年に現在の社殿が建てられた。
佐那河内村のサイトより
『邪馬壱国は阿波だった』(記事末参照)によると、日本の敗戦色の濃くなってきた昭和18年頃、憲兵隊の一行が佐那河内村の神主を訪ねました。延喜式には名方郡御間都比古神社とあるが、記録も伝承も絶えてしまって、調査しても何もわからなかったとのことです。とうとう古墳が見つからないので、村中から特別寄付を徴収して、小さな神社を建てて帰ったそうです。(この神社の事ではなさそうです)
憲兵隊が来たと言うのは、大和地方を探しても見つからない古墳や神社は阿波にあることを知っていたため、佐那河内村に飛んできたらしいのです。上官の厳命を受けていたらしく、何もない所に神社を超スピードで建てて帰ったそうです。
よくわかりませんが、村のサイトには「昭和9年に現在の社殿が建てられた。」とあるので、憲兵隊が探しに来たのは古墳のようです。
大宮八幡神社 徳島県名東郡佐那河内村下字高樋 の宮司家の井開氏の祖の天足彦国押人命(あまつたらしひこおしとのみこと)を祀るようです。
『記・紀の説話は阿波に実在した』によると、天足彦国押人命は第五代御真津日子訶恵志泥命(みまつひこかえしねのみこと)の皇子で、大倭帯日子国押人命(おおやまとたらしひこおしとのみこと)=第六代考安天皇の兄にあたる。
また、ご祭神を第五代考昭天皇(観松彦香殖稲天皇・みまつひこかえしね)とする説もある。
延喜式には践祚大嘗祭には阿波国那賀郡から「長のみけ」を供進するとある。
『新撰姓氏録』によると「長公大奈牟智児積羽八重事代主後也」とあり
『先代旧事紀』は観松彦色止命九世孫、韓背足尼(からせのすくね)が長国の国造になったとある。
大奈牟智神─事代主命─天足彦国押人命─韓背足尼─井開氏
井開氏は大奈牟智神の六世孫または七世孫にあたり、井開氏は素戔嗚命の子孫にあたるそうです。
<追記>
「倭奴国」は卑弥呼の時代の「説文解字」も万葉仮名も「ゐぬ国」と発音
卑弥呼当時の『説文解字』などの中国語発音からも、
万葉仮名の発音からも、「倭奴国」は「ゐぬ国」と発音するので、倭奴は伊都とする邪馬台国九州説ではなく、
阿波なのかなと思ってしまいました。
<追記>ちょっとまだ未確認だけど
手力男
||
豊玉姫
|| ー御間都比古(大若子命)ー・・・・ーー椎根津彦
事代主命???なのか???それとも・・・
邪馬壱国は阿波だった―魏志倭人伝と古事記との一致 (1976年) - – 古書, 1976
古代阿波研究会
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