アンドロメダ星雲が天皇即位の年に輝いたり
食は起こるものの夜に合わせるということは、月食がおこったということか?
高木神はアンドロメダ星雲、栲幡千千姫命はアンドロメダ姫 の続きです。
そういえば神宮皇后と日食の記録が残っている。
元のご祭神が丹生都姫であった波宝神社を思い出しました。
波宝神社(銀峯山)
御祭神
上筒之男命
中筒之男命
底筒之男命
息長帯日売命(神功皇后)
摂社 応神天皇(八幡)
波宝神社
以下、丹生都比売 国見する女神丹生都姫 タクハタチヂ姫は隼人 丹生川上神社 より転載
三代実録によると貞観八年(866)11月四日乙巳波宝波比売併授従三位とあり。金峯山(黄金岳)の波比売神社と古来より密接な関係にある。
この波宝神社は古代は小竹宮(シヌノミヤ)、若桜宮といわれその後、神蔵大明神、古田大明神ともいわれたという。明治初年まであった神宮寺には神功皇年まであった神宮寺には神功皇后の念持仏と云われる新羅産の黄金仏があった。 「フルタ」には精錬の村という意味があったという。
大和国吉野郡式内で銀峯山鎮座の波宝(ハハウ)神社の祭神ももとは丹生都姫(波比伎神)で、黄金岳鎮座の波比売神社も丹生都姫を祀る
・大和国吉野郡式内で銀峯山鎮座の波宝(ハハウ)神社の祭神は丹生都比売大神
・黄金岳鎮座の式内波比売神社も祭神は昔は丹生都比売大神であったが、現在は、応神天皇とミズハノメに入れ替わったという (このあたり参考資料「天河への招待」大山源吾著)波宝神社 小竹宮(シヌノミヤ)は太陽の宮
気になっていたのが
沖縄の言葉でシナというのは太陽のことで、「シノ」というのは月と太陽を含んだ天体のことだそうです。
小竹をわざわざ「シヌ」(シナかシノがウ音便化したのかも?)と読ませるのは、そこに太陽か月の宮という意味をもたせたかったためだと考えました。
シヌの宮というのは、日蝕が起こったためか?
神宮皇后が忍熊王を攻める作戦を練る ために小竹(しの)宮に遷ったときに、そこでは昼でありながら夜のように暗い日が続いた。
その原因は天津神・国津神の子孫を合葬したため「阿豆那比(あづなひ)の罪」だということになった。小竹祝・天野祝を同じ穴に合葬したためというのだ。戦勝ののちに丹生都姫を天津神として格上げすることになった。
丹生都比売 国見する女神丹生都姫 タクハタチヂ姫は隼人 丹生川上神社 より転載
神奈備さんの『住吉大社神代記』の書き下し文より
爰に忍熊王、復軍を引きて退き、道(うじ)に到りて軍(いくさだち)す。
皇后、南のかた紀伊國に詣(いた)りまして、太子に日高和歌山県日高郡に会ひたまひぬ。
議(はかりごと)を以て皇后及び群臣、遽(すみやか)に忍熊王を攻めむと欲ひて、更に小竹宮(しぬのみや)に遷る。
是の時に適(あた)りて、昼暗きこと夜の如くにて、已に多くの日を経たり。
時人、「常夜(とこやみ)行く。」と曰ふ。
皇后、紀直の祖豊耳に問ひて曰はく、「是の恠(しるまし)は何の由_(ゆえ)ぞ。
須(しばら)く旧老に問ふべし」。
時に一老父(おきな)ありて曰さく、「傳へ聞く、かかる恠(しるし)をば、阿豆那比(あつなひ)の罪と謂ふ。」
問ふ、「何の謂ぞ。」
對へて曰さく、「二社の祝者(はふりら)共に穴を同じくして合葬(あはせをさ)むるか。」
因りて推問(と)はしむ。
巷里(むら)に一人有りて曰さく。
小竹祝と天野祝は共に善(うるはしき)友なり。
小竹祝逢病(やまひ)して死(みまか)りぬ。
天野祝血泣(いさ)ちて曰さく。
「吾生ける時に交友(うるはしきとも)たりき。
何ぞ死して穴を同じくすること無ならむや。
則ち屍の側に伏して自ら死(みまか)りぬ。
仍りて合せ葬(をさ)む。
蓋し是か。」
乃ち墓を開きて視るに實なり。
故更に棺(ひつぎ)を改めて、各ゝ処を異にして以て埋む。
則ち日の暉炳(ひかり)〔(て)〕りて、日夜の別あり。
三月丙申朔庚子、三軍大神の教に依り、武内宿禰・和珥臣の祖武振熊{に命(おほ)せて}數萬の衆(いくさ)を率ゐて忍熊王を撃たしむ。https://kamnavi.jp/sumiyosi/index3.htm
神宮皇后の時代の春分の日の前後にしばしば日食が現れた時の事でしょう。
波宝神社のある地名、奈良県五條市西吉野町夜中というのも日蝕が起こり、「夜中」のようになったからでしょう。
波宝神社地図
小竹は、紀ノ川の北側、和泉山地のふもとの北志野・南志野の集落のある志野(紀の川市、旧粉河町)の地
天野は丹生都比売神社の鎮座する天野(伊都郡かつらぎ町)
地図で見ると、天野の地と小竹は紀ノ川を挟んで向かいの土地で、小竹は粉河駅のある辺りです。
天野には丹生都姫の丹生都比売神社(和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野230)があり
紀の川はさかのぼると、吉野川と高見川などになる。
高見川は丹生川上神社中社があり、吉野川には丹生川上神社上社がある。
そして紀の川は中央構造線でもあり、海を隔てて四国で再び吉野川となる。
丹生都姫の父・手力男は四国にいて、娘の丹生都姫たちの代頃に紀州の吉野に進出したようです。
なるほど船を交通手段として、紀の川・吉野川を遡って中央構造線で産出する鉱物を採取していたのがよくわかります。
地元の人によると、銀峯山というのは銀がとれたからだそうで、水銀の鉱脈は至る所にあるそうです。
水銀の採取地は山裾とは限らない
丹生都姫といえばまず水銀ですが、水銀採取をしていたところで、私が吉野で聞いたのは
・水銀採取の井光姫の井光神社は(井光神社 井光の里)700年前に山の上のほうから集落ごと山すそに降りてきたと井光の里の方に伺いました。確かに水銀採取していた場所は山の高い場所だったが、窪地というかすり鉢状の場所でした(表土を浅く掘っていたため?)。井光姫の祀る「おとさん」は山の上の岩だった。現在の井光の里にある井光神社の樹木は降りてきたときに植えたものだそうで、樹齢が700年くらいと伺いました。
・高野山の高野とつく地名は水銀や鉱物採取をする丹生都姫の父手力男の一族に関わりのある土地であることが多く、吉野の高野山も丹生都姫の子孫の犬飼明神が土地を空海に貸した。
・他にも関東でも岩戸分神社 神奈川県平塚市高根 高野と手力男岩戸分神社は山上にある。
・四国の天石門別神社参拝(天岩戸別神社、三社皇大神宮、三社様、三所様、天石門別豊玉姫比売神社の元社)は山の上のほうにあります。こちらは初代天照大神と夫の手力男と豊受さんを祀っています。
・吉野の国栖の集落もそうでした。鹿葦津姫や手力男の息子など国栖の祖を祀る大蔵神社がある場所にあった国栖の集落も、時代が下って、山の上から山のふもとに降りてきました。
大蔵神社 吉野郡吉野町大字南国栖小字深山 社殿彩色が優美
手力男と丹生都姫の一族は、時代が下って、水銀を取りつくすとともに、集落が山の上のほうから下のほうに降りてきているパターンが多いようです。
山すそに水銀鉱脈があった場合は、そこに人が住み、また山すそにお社もあると思います。
舞鶴の真名井近くの白雲山麓のある手力男を祀る幸谷(こうや)神社は山すそにあるようです。こちらも土地の水銀濃度が高く、手力男の一族が水銀を採取していたようです。まだこちらはお参りしたことがありませんが、低山のようです。
見聞きした例が少ないのですが、井光の里などのように水銀の採取地は山裾とは限らないと思います。
やはり吉野は至る所に水銀鉱脈が走っているのでしょう。
波宝神社のご祭神は日蝕の太陽と太歳の星アンドロメダとオリオン三ツ星の象徴
波宝神社の御祭神は、今まで調べてきたことや、[儺の国の星]によると、
住吉明神=三ツ星・オリオンの三ツ星か
神宮皇后=新しい太陽
応神天皇(八幡)=アンドロメダ星雲(太歳の星)
と対応します。
住吉三神は新しい太陽を先導するオリオン三ツ星
住吉三神は神宮皇后に御告げをして新羅遠征を勝利に導いた神です。
波宝神社の壁画は太陽に重なるように月が描かれています。
これは日蝕を現しています。
そして、三羽の鶴は太陽を先導するオリオン三ツ星である住吉三神を象徴していると思います。
波宝神社の御祭神は、春分の日・秋分の日という古代の元旦にオリオン座の三ツ星が縦に三つ連なって真東に姿を現し、新しい太陽を先導することとも重なり、(天津甕星6 オリオン三ツ星は向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊の住吉大神 参照)
神宮皇后の時代の日蝕は春分の日前後にあったそうです。
神宮皇后の時期に、春分の前後に日蝕が重なり、暗くなった空にアンドロメダ星雲が輝いたことから、アンドロメダ星雲が「太歳の星」と呼ばれることになったそうです。
応神天皇は太歳の星アンドロメダ星雲にちなんで八幡と呼ばれたのでは?
神宮皇后の時期に、春分の前後に日蝕が重なり、暗くなった空にアンドロメダ星雲が輝いたことから、(アンドロメダ星雲は)「太歳の星」と呼ばれることになったそうです。
アンドロメダ星雲の旋舞を八幡と表現したそうです。
故に、応神天皇を八幡大菩薩というのだろう。
「八幡とは外来は風に翻る衣装の靡きをいう胡語であって、その発祥はAndromeda
大星雲の旋舞を表現した」
高木神はアンドロメダ星雲、栲幡千千姫命はアンドロメダ姫 より
太歳の星のアンドロメダ星雲にちなんで応神天皇が八幡と呼ばれるようになったのではないでしょうか?
応神天皇は自ら、『丹生大明神告文』を奏上したと伝わるそうです。(「天河への招待」大山源吾著による)
古代の星信仰
波宝神社のご祭神
上筒之男命
中筒之男命
底筒之男命
息長帯日売命(神功皇后)
応神天皇(八幡)
は、新年である春分の日の太陽を導くオリオン三ツ星と、太歳の星アンドロメダ星雲と新たな太陽神(新天皇)を祀っているといえると思います。
天皇即位のときの星・太陽・星雲など天体を象徴し、祀ったものだと思います。
つまりは星信仰です。
吉野の天河弁財天など由緒ある神社はご祭神を「星」と呼びます。
ご祭神が天体を象徴していることから、古代の星信仰が伺えます。
ご祭神は丹生都姫だったのか否か?
神奈備さんは、この波宝神社が山頂に位置することから、御祭神が丹生都姫であったのはおかしい、丹生都姫は山のすその窪地に祀られていることが多いので、山頂ならば金山彦や金山姫ではないか、丹生都姫を隠す必要はないのではないか、と述べておられます。
しかしながら、丹生川上神社の上中下社も丹生都姫からミズハノメへご祭神が変遷しています。
丹生川上神社中社の宮司様から、『丹生都姫の忌杖をつく旅はここ丹生川上神社中社から始まった』と伺いました。
丹生都姫の丹生川上神社でさえご祭神が「罔象女神(みづはのめのかみ)」になったことからも、水銀採取が時代とともに廃れて、律令国家の農業政策のもと、水銀の丹生都姫から農業と水の女神のミズハノメへとご祭神は代わっていったことがうかがえます。
大山源吾氏はこの波宝神社で、応神天皇によって『丹生大明神告文』が読み上げられたのではないかと推測されています。なので、波宝神社には丹生都姫が祀られていたのではないかと推測されています。
社殿壁画に、神宮皇后のときの日蝕と、新しい太陽を先導する住吉三神のオリオン三ツ星が象徴的に描かれていることから、丹生都姫の一族が初代天照大神が崩御して、二代目天照大神が丹生都姫になったときのことを、神宮皇后時代の日蝕に重ねて描かれているとも思われます。
二代目天照大神の丹生都姫は隠されなければならない存在だった
日蝕(初代天照大神が亡くなる)になり、初代天照大神の夫の手力男が新しい天照大神に丹生都姫を選んだことも、波宝神社の壁画には、もしかしたら、重ねられているかもしれません。
日出貴大明神像=手力男(伊太祁曽神社所蔵) 「神々の原影」より
伊太祁曽神社の絵では、手力男が抱いているのは瓊瓊杵尊とされていますが、二代目天照大神の丹生都姫であるのかもしれません。
だとしたら、二代目天照大神が丹生都姫であったことは、天孫族にとっては都合が悪い事でしょう。
丹生都姫が隠されなければならない理由があると思います。
波宝神社とペアの黄金岳の波比売神社のご祭神もミズハノメと応神天皇になっています。
波比売神社 栃原岳(黄金岳)
ご祭神 水波能売神・応神天皇
鎮座地 奈良県吉野郡下市町栃原1807
ご祭神が丹生都姫であった丹生川上神社でも、丹生都姫からミズハノメにご祭神が変遷したことから、こちらのミズハノメは丹生都姫であった可能性が高いです。
とすると、波宝神社の神宮皇后は、新しい太陽(二代目天照大神)ということで、元々のご祭神は丹生都姫であった可能性もあると私は考えます。
もしかしたら、岩戸別命の手力男に住吉三神が被さり、
丹生都姫に神宮皇后が被さり
アンドロメダ・太歳の星・八幡ということで、高木神(アンドロメダ星雲)に応神天皇が被さったのかもしれません。
ぜひとも波宝神社に行ってみたいのですが、五条市に問い合わせてみたところ、バスが廃線になったのだそうで、なかなか難しそうです。
それで私の妄想計画では、これから原チャリ免許をとり、ミニサイズの電動自転車を購入し、
それを持ってコミュニティバスに乗って近くまで行き、
そこから電動自転車に乗って山道を行く計画です。
波宝神社への行き方を次でご紹介する予定です。いいなあ車持っている人は・・・・
波宝神社(銀峯山) 行き方 に続く
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